第二水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込み中、昭和17年09月まで。組込んだ船歴は香取、鹿島、日進、千代田、第46号哨戒艇、明石、山陽丸、国川丸、尾上丸、第二菱丸、健洋丸、日本丸、玄洋丸。
戦後の「日本船名録」と昭和29年までの官報(正確には法令全書だが)を閲覧。飛行機救難船や驅潜特務艇などの船歴を加筆・修正。
海防艦の基礎情報も大部集まってきた。そして偶然国立国会図書館で海防艦の船歴をまとめた本を見つけた。人事以外での主な出典は戦史叢書と海防艦戦記だけである。まとめた方が名古屋在住だから防研やら昭和館までは行けなかったのだろうが、これだけでもこの程度のものができてしまうんだなぁと両方とも所有していない身としては感心してしまう。やはりこれらは必需品かなぁ。
今年最後の更新です。みなさま良いお年を。
第二水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込み中、昭和17年08月まで。組込んだ船歴は第1号哨戒艇、第2号哨戒艇、第34号哨戒艇、第35号哨戒艇、第16号驅潜艇、第30号驅潜艇、千歳、秋津洲、津輕、明石、鶴見、佐多、金龍丸、山陽丸、讃岐丸、~風丸、尾上丸、駿河丸、旭東丸、日本丸、あけぼの丸、日榮丸、健洋丸、~國丸、康良丸、野島丸、北陸丸。
ガ島への増援作戦については第35号哨戒艇の戦時日誌に基づき記述していたが、本艇は直後の9月に戦没しているのでこの8月の戦時日誌は正確性に欠けるものらしい。第二水雷戦隊の戦時日誌とはちょっと齟齬がある。
第二水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込み中、昭和17年07月まで。組込んだ船歴は千歳、千代田、鶴見、明石、C澄丸、~川丸、日枝丸、神風丸、りおん丸、尾上丸、駿河丸、あけぼの丸、健洋丸、日榮丸、康良丸、野島丸、北陸丸、鹿野丸、第二圖南丸、ぶらじる丸、日新丸、第二日新丸、鎌倉丸。
人事は80%くらいはすぐできるが、そこからが遅々として進まない。なんか飽きてきたので、海防艦には手がつかないかも。Wikiも大部しっかりしてきているようなのでこれが完成するまで待つ?
第二水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込み再開、昭和17年05月まで。組込んだ船歴は日進、千代田、千歳、秋津洲、第16号驅潜艇、第17号驅潜艇、第18号驅潜艇、第1号哨戒艇、第2号哨戒艇、第34号哨戒艇、第35号哨戒艇、明石、佐多、宗谷、C澄丸、金龍丸、五洲丸、慶洋丸、神川丸、尾上丸、北上丸、日向丸、山jロ、明陽丸、南海丸、ぶらじる丸、あるぜんちな丸、吾妻丸、北陸丸、霧島丸、鹿野丸、第二號東亞丸、海城丸、あけぼの丸、富士山丸、康良丸。
第十一航空艦隊戦時日誌より秋津洲、矢風の船歴を追記。
第十二航空艦隊戦時日誌より秋津洲の船歴を追記。
呉練習戦隊戦時日誌より香椎、鹿島、こがね丸の船歴を追記。
作成上不便なので電令作等の階層を1つ上げる。特記はしてませんが電令作等は随時更新しています。
お正月に向けて海防艦の下調べを開始。まず人事から。
特設監視艇隊の頁を追加。
もう師走。。。。。
特設掃海隊司令の人事を追加。調べてはみたものの終戦前後については?が残ってしまった。
特設驅潜隊の頁を追加。
特設砲艦隊の頁を追加。
特設哨戒艇隊の頁を追加。
特設監視艇隊調査中。
20年ぶりのリニューアル版という「日本海軍護衛艦艇史」を買おうかどうか迷ったあげく、「収録写真は極力新しいものに入れ替え」の宣伝文句につられ結局購入した。しかし特に目新しい写真はないようである。最初から予想していたが、10年以上前の2005年に「真実の艦艇史」で田村俊夫氏により疑問が呈され、ドイツの研究家によりとっくに前身が判明している第105号哨戒艇を未だに「一説では明治31年に・・」などと、とんでも解説を掲載している。模型関連の雑誌が最新情報をきちんと取り入れている一方で、専門雑誌である(はずの)出版社がこの体たらくである。これからさらに20年このような出鱈目がまかり通るかと思うと暗澹たる気持ちになる。掃海艇の竣工日にしてもしかり。まぁ本来、竣工日など今更間違えようがないものと思って、わざわざ検証しようとしないのもわからくもないが、やはりお代をいただく以上は無責任と言われても仕方ないだろう。第103号哨戒艇の兵装も8センチ高角砲のまま未だ訂正されていない。
戦隊関係の戦時日誌を繰っていると特設驅潜隊、特設掃海隊単位での記述が多く、その度にこの特設掃海隊に属する船はどれだっけと特設掃海艇の頁をめくっていたが、これも面倒だし、船歴中の掃海隊編制と同じように特設掃海隊編制の記述も修正しなければと思っていたので、これを機会に特設掃海艇の船歴を一気に修正、基礎資料の部に特設掃海隊を追記。次は特設驅潜隊をまとめるつもり。
第二水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込中、昭和17年03月まで。組込んだ船歴は千歳、祥鳳、鳴戸、玄洋丸、第二小倉丸。関連の電令作等を追記。
測天、澎湖の船歴を追記するため馬公警備府戦時日誌を再調査。電令作等も抽出していたらドツボにはまり、結局、両敷設艇の他、蓮、鵲、鷺、第20号掃海艇、第21号掃海艇、江之島、圓島、長壽山丸、長白山丸、千洋丸、星光丸、第三東洋丸、若宮丸、長安丸、岩戸丸、第四十四掃海隊(利丸、第二利丸、第六長運丸、第七長運丸)、第四十五掃海隊(第二十日之出丸、第八鶚丸、六甲丸、武藏丸)、第四十六掃海隊(第十八長運丸、第二十一長運丸、第五十二播州丸、第五十六播州丸)、錦水丸、南岬丸、秋津丸、蘭陽丸、嘉南丸、鹽水丸、東石丸、研海丸、揚梅丸、朗洋丸、旺洋丸、白眉丸、第二十一日東丸、第二十二日東丸、第二千代丸、第一大~丸、第一龍重丸、第三十三南進丸、第三十五南進丸、第三十八南進丸、第十八南進丸、第二十一南進丸、第二十六南進丸、第二十八南進丸、第一海南丸、第二海南丸、第三朝洋丸、第十六南進丸、第二十二南進丸、第二十七南進丸、大和丸、第一須山丸、第二十七長榮丸、第二須山丸、第五日吉丸、中和丸、廣田丸、第三御影丸、北比丸、天龍川丸、龍江丸、帝海丸、公称第727号曳船兼交通船(敷設艇型)、公称第788号曳船兼交通船(敷設艇型)、公称第1123號曳船(敷設艇型)、公称第3495号動力船の船歴も追記修正。馬公警備府の場合、結構、命令作や命令も行動に関連のあるものが多いのでこれも特別に採録。
第二水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込中、昭和17年02月まで。組込んだ船歴は瑞穂、燕、鴎、第3号驅潜艇、第1〜5号掃海艇、第9号掃海艇、第11〜12号掃海艇、第1〜2号哨戒艇、第34号哨戒艇、第36号哨戒艇、第39号哨戒艇、明石、鳴戸、鶴見、早鞆、神川丸、國川丸、葛城丸、りおん丸、神風丸、日春丸、朝山丸、白令丸、さんくれめんて丸、玄洋丸、廣盛丸、淀川丸、霧島丸、山jロ、山霧丸、第五日ノ丸、義勇丸。
「海なお深く下巻」読了。ここで取り上げなかった作品に誤りがないというわけではなく、そもそも資料的価値がないから取り上げなっただけ。資料として役立ったのは前述のものだけで、もちろん、資料の為の本ではなく単なる「読み物」だから細かいことを言うなと言われればその通り。しかし、いい加減な記憶、適当な憶測に基づく記述が体験記の名のもとに「真実」として一人歩きをするのは避けなければならない。
第二水雷戦隊戦闘詳報組込中、昭和17年01月まで。組込んだ船歴は千歳、瑞穂、厳島、八重山、蒼鷹、白鷹、第7号掃海艇、第8号掃海艇、第9号掃海艇、第11号掃海艇、第20号掃海艇、第1号驅潜艇、第2号驅潜艇、第3号驅潜艇、第4号驅潜艇、第5号驅潜艇、第6号驅潜艇、第13号驅潜艇、第14号驅潜艇、第15号驅潜艇、第1号哨戒艇、第2号哨戒艇、第34号哨戒艇、第39号哨戒艇、鳴戸、明石、筑紫、赤城丸、浅香丸、粟田丸、國川丸、君川丸、辰宮丸、葛城丸、りおん丸、慶洋丸、咸興丸、武昌丸、妙見丸、慶興丸、南浦丸、阿蘇丸、木曽丸、鹿島丸、興嶺丸、第一号東光丸、第二京丸、第十一京丸、第十二京丸、第十三京丸、北上丸、厚生丸、白令丸、K潮丸、玄洋丸、さんくれめんて丸、彰化丸、興新丸、長和丸、北陸丸、南海丸、畿内丸、天城山丸、第五日の丸、東京丸、乾洋丸、山霧丸、山jロ、霧島丸、白山丸、おは丸、神功丸、義勇丸。
ケンダリ攻略作戦については派手な戦闘がなかったせいかあまり資料が整っていない。「戦時輸送船団史U」P.21では実施部隊として「神通、第八驅逐隊(輸送船使用せず)」と書かれているがそんなことはない。これは当初計画の護衛部隊の陣容で、実際には第十五驅逐隊、第二十一掃海隊(第二小隊欠)、第一號哨戒艇、第二號哨戒艇、第三號驅潜艇に掩護主力として第十六驅逐隊が当たり、その他第一根據地隊の白鷹、蒼鷹、白山丸、第二驅潜隊、筑紫などが護衛に加わっている。主力の輸送船団は南海丸、畿内丸、北陸丸、天城山丸、東京丸、乾洋丸の6隻からなり、さらに~功丸、義勇丸も参加している。
「海なお深く下巻」から
「死線をこえて」どうもよくわからない。しかしながら飛行機による護衛は空しく、ついに第三特務驅潜艇を一隻つけてもらうことになった。
所属船の第五昭和丸のエンジンの故障で再びパラオに向けて曳航されることになったが、曳航中の驅潜艇はアンガウル島北方の無人島に漂着
昭和十九年七月二十七日(中略)ついに驅潜艇は軽油のタンクを貫かれ、火災を起こす間もなく機関長(兵曹長)が来た。(中略)機関長の背にもたれて海中に飛び込む。
夕刻、(中略)ついに驅潜艇はその姿を海中に消した。
この方は一体どの船に乗っていたのか?曳航中の驅潜艇が漂着?曳航してるなら漂着はおかしいでしょ。戦時日誌によると第五昭和丸を曳航していたのは第二十七號驅潜特務艇。7月25日にゴロコッタン島を発し1500空襲に依り第五昭和丸は炎上。第二十七號驅潜特務艇は戦争を生き延び海上保安庁巡視船「つばめ」となる。第三號驅潜特務艇は終戦時ラバウル、第三號驅潜艇はシンガポールで残存。沈んだのは第五昭和丸だけだからこの方の乗船していたのは第五昭和丸でつまりは「所属船の第五昭和丸のエンジンの故障で再びパラオに向けて曳航されることになったが、(被)曳航中の(特設)驅潜艇(第五昭和丸)は(曳索が切れ)アンガウル島北方の無人島(ゴロコッタン島)に漂着」「昭和十九年七月二十七日(中略)ついに(特設)驅潜艇(第五昭和丸)は軽油のタンクを貫かれ、火災を起こす(と)間もなく機関長(兵曹長)が来た。(中略)機関長の背にもたれて海中に飛び込む。」ということだろうか?第三號驅潜特務艇?とどういう関りがあったかは全く不明。因みに第五昭和丸が空襲を受け炎上したのは7月25日である。
週末、法事で留守にするので早めの更新。台風接近中だが無事日曜日に戻れるだろうか?
第二水雷戦隊戦闘詳報組込中、昭和16年12月まで。組込んだ船歴は瑞穂、千歳、八重山、厳島、白鷹、第34号哨戒艇、第36号哨戒艇、第37号哨戒艇、第38号哨戒艇、第39号哨戒艇、明石、~風丸、葛城丸、辰~丸、北上丸、白令丸、さんくれめんて丸、玄洋丸、千光丸、第二號永興丸、廣進丸、第二圖南丸、天龍丸、霧島丸、臺東丸、天城山丸、衣笠丸、彰化丸。
「海なお深く下巻」から
「硝戒艇・文丸での勤務日誌(抜粋)」一級資料。抜粋でなく全部公開してくれれば。文丸の船歴を追加。海事図書館で初版を見てきたが、もちろん「硝戒艇」などというバカげた字は使っていなかった。きちんとした出版社だと思っていたが美人の社長が跡目を継いでから質が落ちてしまったようだ。
日本近海汽船の長田丸(船舶番号40020)は45.2.20荒天座礁と「戦時日本船名録」に書いてあるが、出典とされている原資料「船舶運營會調査月報」を当ると昭和20年ではなく昭和22年2月20日。この調査月報は昭和21年9月(?10月分が2号だから海事図書館に保存されていない1号は9月だろう)から作成を開始しているものである。従って、「玄海灘の機雷被災第一号」の長田丸はおそらく船舶番号40020の長田丸。残念ながら大発見とはならなかった。長田丸(船舶番号53355)と雷山丸の信号符字を追加。長田丸の信号符字JLTVは第二十一日正丸(船舶番号53335)と同じであり、どちらかが別の信号符字を附与されていた可能性もあるが、とにかく海上交通保護用船名簿にそう書いてある以上そのまま採用することにした。因みにこの系列だとJLYVが未割当てである。
会社のPCもWindows10になった。色々あったがなんとか安定。でも家庭用のと違って起動が遅いんだな。ネットワークの関係とかいろいろあるんだろうけどやはりSSDとHDDの差みたいである。少なくとも起動ドライブにHDDの時代は終わった。Windows10といえばアップデートするたびに拡張子の関連付けを勝手に変えたり、ロック画面の画像を変えてみたり、ユーザーの許可なく勝手なことするなよと言いたい。
第六戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込み。組込んだ船歴は石廊、知床、極東丸、東亞丸、東邦丸、あけぼの丸、第二圖南丸、寶洋丸、さんくれめんて丸、立山丸、榛名丸、天洋丸、北開丸。
「海なお深く下巻」から
「玄海灘の機雷被災第一号」長田丸に乗船していた方の昭和20年3月下旬から終戦直後までの手記。長田丸という名の船は20tの曳船(船舶番号28526)、118tの曳船(船舶番号31018)、479tの日本近海汽船の貨物船(船舶番号40020)、2,969tの日本郵船の貨物船(船舶番号31018)、2,214tの杤木汽船の2D型貨物船(船舶番号53355)の5隻。他に第十一、第十二長田丸という夫々35t、42tの機帆船がある。石炭輸送に従事していたことから曳船や40t前後の機帆船ではない。日本近海汽船の長田丸(船舶番号40020)は昭和20年2月20日に種子島で座礁し昭和22年7月9日に救難完了するまで稼働していないのでこの船ではない。日本郵船の長田丸(船舶番号31018)は特設運送船として行動中昭和19年4月22日聖雀付近で擱坐、放棄されているのでこの船でもない。すると残るは杤木汽船の2D型貨物船(船舶番号53355)しかない。この長田丸、実は1,000tを超える船の中で唯一最終時の詳細が不明な船なのである。公文書では昭和19年9月15日に鹿児島にいたことが確認できる最後で、たぶんこのあと米軍の潜水艦に撃沈されたのだろうというのが今までの通説。この方の乗船していたのが本当にこの杤木汽船の長田丸であるなら長田丸が戦争を生き延びたという大発見の記録。しかし下関防備隊の戦闘詳報には、この長田丸触雷の件
については一切触れられていない。また、何故、稼働状態であったにもかかわらずSCAJAPにも記載されず、杤木汽船にも返還されなかったのか、謎は深まるばかりである。
「徴用漁船、硝戒線の戦い」一括変換でもしたのか校正者の無知なのかこの本を通して「哨戒」としているのは一つもないんだな、これが。気になって非常に読みづらい。さて、それはおいといて全体としてはよくまとまっており良い手記。ただ正確な日付が書かれていないのは非常に残念。第十二網島丸の兵装は就役時は7.7mm単装機銃1基だけだが、最終時の兵装をそのまま書いてしまっているのもいただけない。
第六水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込み。組込んだ船歴は鹿島、第20号掃海艇、第16号驅潜艇、第17号驅潜艇、第18号驅潜艇、第22号驅潜艇、第24号驅潜艇、第28号驅潜艇、第29号驅潜艇、第30号驅潜艇、石廊、西京丸、廣コ丸、淀川丸、寶洋丸、明天丸、乾陽丸、北陸丸、畿内丸、吾妻山、吾妻丸、もんてびでお丸、第二日新丸。
MO機動部隊戦闘詳報より東邦丸、御室山丸、神川丸、日新丸、第二日新丸の船歴を追加。
敷設艇測天対敵潜水艦戦闘詳報より測天の船歴を追加。
第十六掃海隊戦闘詳報より第五玉丸、第三玉丸、第七昭和丸、第八昭和丸、第16号驅潜艇、第17号驅潜艇、第18号驅潜艇、明陽丸、山jロの船歴を追加。
聯合艦隊戦時日誌別冊第一より鶴見、尻矢、鳴戸、室戸、伊良湖、間宮、朝日、明石の船歴を追加。
モード切替の度に「A」と表示される現象はIMEの設定で「IME入力モード切替の通知」のチェックをはずすことで解決。こういう機能、元からあったのなら「勝手にチェックを入れるな」だし、新たに付け加えたのなら「余計なお世話」である。Web Cameraの方はうまくいったかと思いきや再起動するごとに「Camera configulation applicationがシステムに変更を加えようとしています」とかなんとかでてきて「いいえ」を押してる分には問題ないが、毎回でてくると鬱陶しいのでつい「はい」を押すとブルースクリーン。結局、こいつが悪さしてるわけだが、本当に余計なことばかりしてくれる。EdgeもGroove Musicもフォトも全然使えるレベルには改善されてないし、「品質更新」するところを間違ってんじゃないの。
第六水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込中、昭和17年05月まで。組込んだ船歴は祥鳳、香取、鹿島、第20号掃海艇、第1号哨戒艇、第2号哨戒艇、第38号哨戒艇、第39号哨戒艇、石廊、雄島、神川丸、高榮丸、最上川丸、京城丸、第56驅潜隊、第二文丸、第三關丸、御室山丸、寶洋丸、東邦丸、吾妻山丸、五洋丸、秋葉山丸、彰化丸、長和丸、松榮丸、日新丸。
RZP攻略部隊、MO攻略部隊、MO機動部隊の電令作等を追加。
「海なお深く下巻」から
「「海上特攻隊」指令の下で」。北海丸の司厨員の方の文章である。北海丸の兵装について「船首には十五センチ砲があり船橋上に単装二十五ミリ機銃、ボートデッキに連装二十五ミリ機銃四門装備、船尾には爆雷装填台が二台装備され警戒隊員が乗船していた。」という記述がある。拙ウエブサイトでは高角砲4門としているので「はて出典は?」と探すも、丸スペだと「船首に八糎高角砲」とあるだけで、見つからない。昭和17年9月30日撮影の写真では船首尾に砲が各1門装備されていることだけは確認できる。Googleと「しおみ会」なる会員制の頁に投稿された元通信士の方の文章がヒットする(http://shiomikai.web.fc2.com/kaiin/other/hokkaimaru_110518.pdf)。本篇と同じ昭和19年頃の記述である。これによると「船首、船尾に大砲が各一門。ブリッジのウイング上に13ミリ単装機銃各1基、ボートデッキ後方甲板両側に二十五ミリ二連装機銃各一基、後部甲板に爆雷投下装置が、又ブリッジに水中聴音機が設置されていた。」とある。艦橋上に二十五粍機銃を装備することはまずないので、ここは13mm機銃として、25mm連装機銃はさて2基か4基か? 拙ウエブサイトの高角砲4門というのが25mm連装機銃の誤りなら4基だが、連装2基4門の4門なら連装2基。投射機を備えているわけはないので爆雷装填台ということはない。因って爆雷装填台ではなく爆雷投下装置が正しいだろう。総合的にみると、この元通信士の方の記述が最も正確と思われる。
Windows 10 Version 1703の更新準備ができたということで再起動-->失敗。エラーコードをGoogleと何と自分のウエブサイトがヒット。またもやWeb Cameraが干渉してるみたいで、USBを引っこ抜いたらUpdateは成功。そして再度USBを挿すとお決まりのブルースクリーン。Web Cameraは最近全然使ってないし、USBのPortが4つ減るのだけが難点だがもうほっとこうかどうしようか悩んでいる。何か漢字変換のモード切替の度に「A」って表示されるし、Windows Media Playerとかいくつかのアイコンがスタートメニューから消えてテキストだけになってるし、さらにはIEに余計なEdgeのアイコンが追加されるし、このアップデートは百害あって一利なし。
第六水雷戦隊戦時日誌・戦闘詳報組込中、昭和17年03月まで。一部聖川丸戦闘詳報から補足。第32号哨戒艇、第33号哨戒艇、石廊、神威、長浦、金剛丸、金龍丸、天洋丸、五洲丸、最上川丸、聖川丸、辰武丸、寶洋丸、第二號海城丸、東邦丸、明天丸、乾洋丸、第十八御影丸、高瑞丸、黄海丸、吾妻山丸、五洋丸、松榮丸、第貮稻荷丸、第一見寶丸、第五富久丸、第二振興丸、第十五振興丸、第五砲艦隊、第五十六驅潜隊、第十四掃海隊の船歴を追加。
「ウ」攻略部隊、SR方面攻略部隊、RXB攻略部隊の電令作等を追加。
「海なお深く下巻」は235頁まで読破。役に立ちそうだったのは
「積荷の焼夷弾、暴発」、金泉丸の二等航海士だった人の回想。
積荷の爆弾が爆発したのが昭和19年11月5日だったことが記されてある。ただ「徴傭船舶行動概見表」だと爆発は6回起きているが6回も起きたようには書かれていない。出港日は11月3日で一致しているが「四日ぶりに最寄りの台湾の基隆に入港した。」という部分がひっかかる。基隆入港日は11月8日であり何時から数えて「四日ぶり」なのか。出港日からなら「五日ぶり」だし爆発事故からなら「三日ぶり」。爆発事故が11月4日であったなら「四日ぶり」になるので、はて、この記録を信用して良いか迷ってしまう。また、「モホ五十一船団」という記述もあるがこういう船団が本当にあったのかも?マークがつく。ホモ〇一は昭和19年10月20日の発航だがモホ〇一の発航は昭和20年に入ってからでありこの時期モホ五十一なる船団が存在したとは考えづらい。昭和19年11月3日に門司を出港したのはミ25船団だけで船団隻数は22、護衛艦は長白山丸、第23、33、51、52、130号海防艦の6隻だけである。従って「十三隻の護衛艦に守られて」ということはないし、6隻しかいない護衛艦の半数を金泉丸のためだけに割いて「護衛艦が三隻残り」ということもあり得ないと思う。
「帝北丸の練習日誌」日誌をつけていたのなら是非すべて公開して欲しかった。4月23日に舟山近くにいたことだけが新たな発見。
中国の閲覧者の方から「かごしま丸」についてのWikiのページをご紹介いただいた。ソースが「世界の艦船」1996年3月号の写真ページと「特設艦船物語」ということだったので、書棚から引っ張り出して確認。「かごしま丸」が「暁辰丸」の後身で、「暁辰丸」はBangor級掃海艇(Beaulieu)の後身というもの。イギリスの権威者の本でBeaulieu --> Lantan --> Gyosei Maru --> Kagoshima Maruと紹介されているのは知っていたが、Gyosei Maruでない、すなわち、この記述は全くでたらめと思っていた。しかし、「Gyosei Maru」を「Gyoshin Maru」に置き換えれば、確かにすべて辻褄があう。「世界の艦船」も「特設艦船物語」も両方とももちろん読んでいるはずだが、このウエブサイトの作成にかかる前だからあまり記憶に残らなかったのだろう。思わぬところから永年の疑問が晴れた。曉辰丸の船歴を修正。
さらにTaikoo Dockは太古船渠であって、大沽船渠ではなく、大沽は天津市附近の地名でTakuだとご指摘いただいた。滿洲を平気で満州と書く日本人にとってこの辺は誤差の範囲かもしれないが、さすがに本家としては許容範囲を超えているのだろう。私もまだまだ勉強不足である。これもサイト内検索で引っかかったものはすべて修正。今後は違いを意識して記述することとする。
なんとなくもう秋だなぁ。
第十九戦隊戦時日誌・戦闘詳報より鹿島、祥鳳、神威、常磐、沖島、津軽、第20号掃海艇、第31号驅潜艇、第1号掃海特務艇、第2号掃海特務艇、石廊、宗谷、雄島、金剛丸、金龍丸、高榮丸、天洋丸、最上川丸、五洲丸、聖川丸、日海丸、静海丸、京城丸、勝泳丸、第十四掃海隊(玉丸、第二玉丸、羽衣丸、第二號能代丸)、第二文丸、第三關丸、第五十六驅潜隊(第五壽丸、第八玉丸、第三利丸)、第五十九驅潜隊(昭jロ、第五昭南丸、第六昭南丸)、第六十五驅潜隊(宇治丸、第六京丸)、廣コ丸、辰武丸、北開丸、第二號天洋丸、東邦丸、第二號海城丸、御室山丸、寶洋丸、黄海丸、高瑞丸、第二南海丸、五洋丸、吾妻山丸、野島丸、日新丸の船歴を追加。
「ス」攻略部隊の電令作等を追加。
軍艦津軽戦闘詳報より祥鳳、~威、第十九戦隊(沖島、津軽、天洋丸、最上川丸)、第20号掃海艇、 第三十二驅潜隊(第28号驅潜艇、第29号驅潜艇、第30号驅潜艇)、第31号驅潜艇、石廊、雄島、聖川丸、金龍丸、金剛丸、大同丸、勝泳丸、第五砲艦隊(日海丸、静海丸、京城丸)、第七砲艦隊(昭徳丸、弘玉丸)、第十四掃海隊(玉丸、第二玉丸、羽衣丸、第二號能代丸)、第十五掃海隊(第三關丸、第二文丸)、 第五十六驅潜隊(第五壽丸、第八玉丸、第三利丸)、第五十九驅潜隊(昭jロ、第五昭南丸、第六昭南丸)、 第六十驅潜隊(珠江丸、第八京丸、第十京丸)、立山丸、和洋丸、寶洋丸、第二號海城丸、黄海丸、高瑞丸、吾妻山丸、五洋丸、野島丸、南海丸、筥崎丸、氷川丸の船歴を追加。
軍艦津軽戦闘詳報、軍艦聖川丸戦時日誌、第六水雷戦隊戦時日誌、第十九戦隊戦時日誌等より南洋部隊、R攻略部隊、R方面部隊の電令作等を追加。
先日常磐の機雷搭載数に関しさんざん推論を述べたが、なんのことはない。昭和20年5月の第18戦隊戦時日誌・戦闘詳報があった。Djvu時代にダウンロードしてたものを使っていたのだが、昭和20年4月から6月分はダウンロードし損ねていて、次のお題は何にしようかと改めてアジ歴を眺めていて気付いた次第。お恥ずかしい(^ ^;。基本的に先の推論はすべて裏がとれるし、問題の常盤の機雷敷設数が600個ではなく500個だったことも明確になった。ただ新たに問題がでてきてしまった。第一次対馬海峡機雷堰敷設時に、九三式機雷三型400個、同一型114個、五号機雷改一6個の計520個を敷設しているのである。考えられるのは、
自動と
特繋の違いが何か重量に関するヒントになるかもしれない。継続調査。
第百二戦隊戦時日誌より鹿島、辰宮丸の船歴を追加。
前回に続き「海なお深く下巻」から
「わが無線室戦闘記」日付は微妙に誤差があり信用できない。吾妻山丸の武装内容は前、後部に八センチ砲、船橋上に十三ミリ機銃一挺、船腹に舷外電路
特設艦船の場合、ある情報はなんでも入れており、これも書き足そうと思ったがP.65で四門の高角砲が一斉に唸りだす
あれ、ということは八糎高角砲を前後部に各2門づつ搭載したということ?特設運送船でそういう配置をしているのは未見だが本当にそうなら大発見。あまりにも衝撃的なので追記はやめた。大寶山丸の艙内に水タンク三十六個を設けた
ことなど興味のある記述もたくさんあるが、どれが信用でき、どれが信用できないかの判断が難しい、残念な資料である。
第十八戦隊(呂宗海峡部隊)戦時日誌より第二十一掃海隊(第38号掃海艇、第39号掃海艇、第41号掃海艇)、第61号驅潜艇、第74号驅潜特務艇、第83号驅潜特務艇、第87号驅潜特務艇、第92号驅潜特務艇、第96号驅潜特務艇、第151号驅潜特務艇、第152号驅潜特務艇、第163号驅潜特務艇、第176号驅潜特務艇、第177号驅潜特務艇、第189号驅潜特務艇、第190号驅潜特務艇、192号驅潜特務艇、長島、岩戸丸、嘉南丸、秋津丸、旺洋丸、陽光丸、鮎川丸、紀洋丸、高知丸、武蔵丸、第二昭和丸、第十八日正丸の船歴を追加。第二十一掃海隊の戦時日誌と呂宗海峡部隊の戦時日誌では行動の齟齬が数箇所ある。基本的には第二十一掃海隊戦時日誌を優先するが、電文で明らかに呂宗海峡部隊の戦時日誌が正しいと思われる部分はそちらを優先。
昭和19年12月の呂宗海峡部隊戦時日誌に気になる記述がある。
二.東港本隊ハ東吉嶼ノ198度23浬ニ碇泊中ノ春風(本日長島曳航)ノ警戒ニ当レ
八日春風曳航中ノ長島遭難セル為驅潜特一五二同一九〇ニ対シ帰投ヲ命ズ
一五〇〇に至ルモ長島ヲ認メズ尚捜索中
長島ノ警戒任務を解ク帰投セヨ
長島の最期はよく知られておらず、ただ昭和19年5月に高雄香港間で荒天により沈没
という曖昧な記述がどこかにあって(この出典を探したが見つからない。英語の記事だったかもしれない。)当サイトでもしばらくそれを使っていた。しかし昭和19年9月の行動が呂宗海峡部隊戦時日誌に出てきたことから日付だけを抜いてVer. 17.33に至った。戦時日本船名録では戦後川南修理中
と書いてあるが出典は示されていないし、手持ちの戦後の川南の修繕船リストにも見当たらない。従ってこれも信頼性に乏しい。そこで「春風」がキーワードかと4年前に購入した渡辺保著「奇跡の軍艦 驅逐艦春風」を引張り出す。269頁台湾から馬公へ回航する時、折しも台湾海峡は筆舌に尽し難い季節荒天であり、曳航船一隻が犠牲となる様な難作業であった。
本書では11月30日高雄出港時の被曳航艦は「朝風」となっているが第一海上護衛隊の戦時日誌によると「汐風」が正しい。そもそも朝風は昭和19年8月には戦没しているので「朝風」ということはあり得ない。12月の戦時日誌は残存していないので公文書でその後を追跡することはできないが、同書によると出港当日の荒天により汐風は春風を置いてけぼりにしたらしい。汐風は終戦時に残存しているので犠牲となった曳航船は汐風のことではない。さて4日の呂宗海峡部隊電令第7号である。長島は春風の曳航船となっている。そして遭難し8日には捜索が打切られている。これで長島は昭和19年12月4〜8日の間に荒天の為、台湾(東吉嶼ノ198度23浬)馬公間で遭難したということでまず間違いないだろう。
西部方面部隊、西方部隊、佛印根據地部隊、彼南根據地部隊、昭南根據地部隊、アンダマン根據地部隊の電令作を追加。
前回に続き「変わりダネ軍艦奮闘記」から
「知られざる黒潮部隊の栄光と悲惨」安州丸が安川丸、海晃丸が海見丸に誤植されている。OCRでも使って原稿起こしをしているのだろうか?
「老兵を乗せ”特設砲艦”太平洋に乗り出す」「ボロ商船」「八・五ノットで走れる」「一五〇〇トンくらいあって」「オンボロながら」「あのボロ船」以前にも永興丸について同じようなことを書いていた人がいたが散々な言い方である。余程第一號明治丸のことが気に入らなかったのでしょう。明治丸は総噸数1,934、航海速力11kt、最大速力12.9kt。8.5ktで走ったのは単に特設監視艇の速力にあわせただけでしょうし、昭和12年の竣工だから徴傭時の昭和16年だとまだ船齢4年の比較的新しい船であり、決してボロ船ではありません。いくら老兵が乗っていたからと言って船までボロと言ってほしくないものである。
「われ恐怖の東京急行便B29を捉えたり」より第十號大K丸に撃墜機の捕虜収容に関する記述を追加。
以上27篇の内参照できたのは6篇のみであった。
続いて、「海なお深く下巻」から
「海戦前夜の機雷敷設船(聞き書き)」ここに私たちの先輩の開戦準備に参加させられた記録として、聞き書きしながら当時の記憶をたどって再現しました。
もっともらしくこう書き出しているものの最初からおかしい。乗組員の職務だけは一般航海と比べ、大きな違いはなく
軍服を着た海軍軍人が。乗組員の目の前に現れた。
まるで一般商船に軍人が乗り込んできて混乗しているような書きぶりだが、すでに辰宮丸は特設敷設艦として行動しているのである。特設艦船部隊令によれば特設敷設艦の職員及其ノ職務ニ付テハ艦船令中軍艦ニ關スル規定ヲ準用シ尚必要ニ應シ軍屬及職工ヲ置キ各上官ノ命ヲ承ケ服務セシム
。すなわち、辰宮丸は裸傭船契約の軍艦であるから、固有の船員はすでに下船して、乗組みは全員軍人となっている。民間人が乗り組んでいたとしたら、それは固有船員をそのまま乗り組ませていたわけではなく、軍属として必要数が乗り組んでいたにすぎない。昭和19年の高榮丸の例になってしまうが乗員205名のうち雇員・傭人はあわせても3人しかいない。この話を聞かせた先輩
なる人が本当に乗船していて執筆者と同じ機関員ならばそれはもう民間人ではなく立派な兵隊さんとして乗組んでいるのだから、本書でいう乗組員
と兵隊
は何をもって区別しているのか全く意味不明である。
因みに昭和16年9月8日附で辰宮丸機関長に補職されているのは飯島健一海軍豫備機関大尉、9月5日附で分隊長に辻川重海軍豫備大尉、乗組に小林毅海軍豫備少尉などである。三百個の機雷が海に投げ込まれた。
このとき敷設されたのは456個である。しかもアナンバス諸島のジェマジャ島とティオマン島の間の海域でありシンガポール海峡ではない。従って辰宮丸が敷設した機雷を徹底的に掃海しなければ、日本の軍艦は危なくて、シンガポールには近寄れなかった
わけなどない。そもそも自軍が敷設した機雷の場所を知らないような間抜けな海軍さんではない。辰宮丸も帝国海軍の戦史から抹殺処分しなければならなかった。もともと帝国海軍の艦船名簿にない船であるから、放置すれば自然に事足りたわけだ
ここまでくるともう空いた口がふさがらない。聞き書きでも何でもない変な仮設や妄想を述べたてて辰宮丸の機雷敷設の史実を全く信頼性のないフィクションにしてしまっているのである。
「ソロモン海の食糧補給船」より第三高速丸の曖昧な行動と兵装を追記。一応射手をつとめていたということと、兵装については妙に詳しいことから何か根拠があるのだろうと勝手に解釈し追記することにしたもの。P.43にある高速魚雷艇とは第百十五號魚雷艇のことだから少なくとも18.07.26にラバウルにいたことは確実。これって、一部分だけ「知られざる戦没船の記録下巻」に掲載されてたやつですが、初めて全文読みました。
「遺稿 機関長の従軍航海記」より南阿丸の船歴を追加。これは当時に書かれたもので一級資料だろう。大阪商船の事故・海難報告書とも矛盾はない。午後の記録を午前と取り違えていたのに気づき訂正m(__)m。ただ「乙巡」を「乙順」 、「筥崎丸」を「箱崎丸」そして本篇以外でもそうだが「哨戒艇」を「硝戒艇」と誤植してある。「神興」は「新興丸」のことだろうか?原文の文語体の文章の一部を口語体に修文した=編集部
ということだが余計なことをする暇があれば基本的な校正をちゃんとして欲しいものだ。一級資料が台無しである。
第一掃海隊(第一號掃海艇、第三號掃海艇、第二十九號掃海艇)戦時日誌・戦闘詳報より第1号掃海艇、第3号掃海艇、第29号掃海艇、第42号驅潜艇、第47号號驅潜艇、第1号驅潜特務艇、大功丸、新東北丸、東郷丸、海光丸、い號壽山丸、雪川丸、那須丸の船歴を追加。
第一掃海隊(第三十三號掃海艇)戦時日誌より第33号掃海艇、第44号驅潜艇、第47号驅潜艇、第48号驅潜艇、第1号驅潜特務艇、第88号驅潜特務艇、第161号驅潜特務艇、第171号驅潜特務艇、第194号驅潜特務艇、第一鶚丸、第二号金剛丸、第二幸昌丸、第三魁丸、第二長周丸、長功丸、辨天丸、第一須山丸、第五盛秋丸の船歴を追加。これにて掃海艇、掃海隊戦時日誌の調査は終了。
このサイトの閲覧者の方の中に、前回の更新で常磐の機雷搭載数を600個から500個にこそっと訂正していたことに気づかれていた方がいらしとしたら、すごいと思います。この理由について書きたかったものの、邪推の域を出なかったため棚上げにしていたのですが、600個説の根拠の一つである海軍水雷史
と、ついでに戦史叢書海上護衛戦
の該当箇所を昭和館に行ってコピーして、さらに常盤以外の戦時日誌をみることで、ほぼ解明できたと考え記しておきます。
昭和19年3月に訓令工事が施行されて以来、常盤の機雷搭載数は九三式500個に増強されました。そして記録に見られる昭和20年5月13日の對馬東水道機雷堰の敷設まで500個を超える敷設は行っていません。しかし、その次に行われた昭和20年5月21日の對馬西水道北側機雷堰の敷設でいきなり0815 敷設止め(600個敷設)
との記載が軍艦常盤戦時日誌にでてくるため常盤の機雷搭載数は600個であるとされています。しかしどうも腑に落ちません。何故急に100個も増載できるようになったのでしょうか。このように重要な改造に関する記述が戦時日誌に出てこないのは何故でしょうか。いろいろ調べた結果、この600個という数字は敷設艇濟州と合わせた敷設数であって、常盤が敷設したのはあくまで500個であったというのが結論です。
このときの敷設には常盤の他に高榮丸、濟州、巨濟が参加しています。敷設線は2本で各600個です。高榮丸の戦時日誌をみると高榮丸の敷設した機雷は500個ですので、残りの100個は別の艦が敷設したことになります。同戦時日誌には各艦の敷設開始終了時間が記載されており、残りの100個をスムーズに敷設できるのは巨濟と思われます。
高榮丸が300個の敷設を終えるころ、巨濟が敷設を開始し、巨濟の敷設が終わったところで高榮丸が2回目の敷設を開始している様子がみてとれます。この連携プレーで敷設線1本分600個を敷設しています。
常磐の戦時日誌には記載がありませんが高榮丸の戦時日誌では0609〜0634まで常盤に25分間の敷設作業の中断があったことがわかります。これに濟州の敷設作業時間をあわせると
常磐の戦時日誌通りぶっつづけで2時間半作業を行えば600個の敷設も可能ですが中断時間を含めた124分となると毎分4.8個の敷設を行わなければならず、まず不可能です。そもそも高榮丸は九三式機雷750個を搭載可能であり、常磐もまた九三式機雷を600個搭載可能ならば巨濟と濟州がこの敷設作業に参加する必要はありません。敷設艇との連携プレーが必要であったと考えない限り、巨濟と濟州がこの敷設作業に参加しなければならなかったという理由を説明することもできません。以上から繰返しになりますが常盤の九三式機雷搭載数は500個のままであったという結論になります。
最近は電令作とか信令作といったものをフルテキストで入れるようにしているのだが、これらを一つにまとめてみるのも便利かと思い、基礎資料の部>1.関連条約・勅令・達・内令・文書等>21.電令作・電令・信令作・信令に入れてみた。とりあえずは佐伯防備隊、機雷部隊と呂宗海峡部隊だけだが逐次増やして行く予定。
もう少し待てば文庫になるかなと思いつつ先日「変わりダネ軍艦奮闘記」を購入。値段もさることながら単行本は嵩張るのであんまり増やしたくない。よって他にも興味ある本はあったもののこれだけに絞る。
同書所載のうち
「標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ」より矢風、鶴見、金城丸、東亞丸、富士山丸、寶洋丸、玄洋丸、五洲丸の船歴を追加。
「悲運の高速爆撃標的艦「大浜」の怒りと涙」より大浜の船歴を修正。これによると随分と兵装は異なるのだが、今回はペンディング。
「特設巡洋艦二隻のインド洋通商破壊戦」より大瀬(ゼノタ)の船歴を追加。これによるとゼノタを拿捕したのは報國丸ではなく愛國丸ということなので訂正。執筆者が乗船していたときの日付についてはおかしな点はないが乗船していなかったと思われる部分の日付は疑問符のつくものがあるので愛國丸についての訂正はこの拿捕の部分のみに留める。昔の文章の再録なので仕方ない点はあるが、おそらく写真は当時掲載されたものとは差し替えているようなので、愛國丸と報國丸の写真を取違えたまま訂正していないのは出版社の怠慢であろう。写真により搭載機の機種について訂正。
「特潜母艦「日進」ブーゲンビル沖の痛恨」より最後の航海部分の船歴を追記。浅間丸の横浜出港日など前半の部分は信頼できないのでスルー。二十五粍機銃を二聯装と誤記していたので三聯装に訂正。特潜母艦とは特殊潜航艇母艦の意味なのだろうが特設潜水母艦みたいであまり良い表現ではないと思う。
「にっぽん変わりダネ艦艇総まくり」は雑誌「丸」昭和38年3月号、昭和50年の「丸エキストラ」に続いて3回目だが、新しく文章を打ち直したせいか「屋島丸」が「尾島丸」に誤植されている。校正者の力量が落ちているのだろう。特設監視艇は昭和15年に16隻が徴用されたことになっているが実際は14隻で、これは54年間いまだに訂正されていない。
「第五驅潜隊キスカ湾血染めの奮戦」は対空戦闘の日が9月29日となっているが川村豫備大尉が重傷を負ったのは10月9日だし香山豫備大尉が戦死されたのも10月10日だから、日付に信頼性はないと判断しスルー。
「砲艦「宇治」旗艦の威信をかけて敵機撃墜」から備後丸被弾関係の部分を宇治、第二十一號掃海艇、栗、第十一昭南丸、備後丸に追記。これは第十一昭南丸の船歴と矛盾がないため。一方、壽丸は5月15日の時点でまだ鎮海にいるので執筆者が乗艦したのは佐世保ではなく鎮海だったか、あるいは日付が間違っているのかのどちらか。よって、後の部分はスルー。
以下信頼できそうなもののみデータを抽出する予定。
それにしても、この本の内容は持ってる古い「丸」で一回は読んでるみたいだが正岡氏の文章以外は全く記憶がない。わざわざ買わなくても本棚の奥から引っ張り出せば良かったのかもしれないが、こういうきっかけでもないとなかなか積極的には調査できない。
夏休みも今日を含めてあと2日。10連休なんてあっという間である。
第十一特別根據地隊戦時日誌より日枝丸、第三共榮丸、笠置山丸、建部丸、初鷹、若竹、刈萱、朝顔、野埼
第7号掃海艇、第20号掃海艇、第34号掃海艇、第1号驅潜艇、第9号驅潜艇、第19号驅潜艇、第20号驅潜艇、第21号驅潜艇、第33号驅潜艇、第34号驅潜艇、第35号驅潜艇、第41号驅潜艇、第43号驅潜艇、第57号驅潜艇の船歴を追加。これにて根據地隊の再調査は終了。
第十八戦隊戦時日誌・戦闘詳報より常盤、鴎、燕、鷹島、前島、濟州、怒和島、新井埼、巨濟、友鶴、真鶴、第17号輸送艦、第18号輸送艦、第145号輸送艦、第146号輸送艦、第17号驅潜艇、第23号驅潜艇、第37号驅潜艇、第49号驅潜艇、第58号驅潜艇、間宮、第87号驅潜特務艇、第94号驅潜特務艇、第95号驅潜特務艇、第179号驅潜特務艇、第15号掃海艇、第六海洋、立神、西貢丸、高榮丸、新興丸、長白山丸、龍井丸、大安丸、目斗丸、第二十一日東丸、錦水丸、第十六長運丸、海威の船歴を追加。
第23号驅潜艇の昭和19年8月の行動は第十一號掃海艇戦時日誌の行動と整合性がとれないような気がするがどちらが間違いかよく判らないのでそのままとする。
2017年06月17日に第二十一特別根據地隊戦時日誌から追記した燕の船歴を削除。おそらくこの「燕」は21特根所属船の通称で敷設艇燕のことではないのだろう。
せっかくなので仕掛中の常盤の大正時代の船歴も追記。大正10年から14年まで。戦史叢書「海上護衛戦」からの機雷敷設関連も少しだけ追記。
さて夏休みである。
父島方面特別根據地隊戦時日誌・戦闘詳報より第2号輸送艦、第7号輸送艦、第104号特設輸送艦、第105号特設輸送艦、第106号輸送艦、第132号輸送艦、第134号輸送艦、第149号輸送艦、第152号特設輸送艦、第153号特設輸送艦、第154号輸送艦、千鳥、鴻、鵯、鳩、第20号掃海艇、第24号掃海艇、第25号掃海艇、第27号掃海艇、第28号掃海艇、第33号掃海艇、第10号驅潜艇、第14号驅潜艇、第16号驅潜艇、第17号驅潜艇、第18号驅潜艇、第31号驅潜艇、第32号驅潜艇、第33号驅潜艇、第42号驅潜艇、第43号驅潜艇、第44号驅潜艇、第47号驅潜艇、第48号驅潜艇、第50号驅潜艇、第51号驅潜艇、第52号驅潜艇、第54号驅潜艇、猿島、巨濟、成生、済州、網代、由利島、第101号哨戒艇、第11号掃海特務艇、第12号掃海特務艇、第20号驅潜特務艇、宗谷、白銀丸、公称第773号内火艇、公称第978号内火艇、公称第3998号重油船、公称第6389号動力船、公称第6741号動力船、山陽丸、長運丸、第二號日吉丸、第十雲海丸、朝輝丸、桐丸、興義丸、第三昭南丸、第八昭南丸、第十一昭南丸、第二拓南丸、文丸、大功丸、第二關丸、第八昭和丸、第八拓南丸、慶南丸、第六玉丸、第八利丸、第七豐丸、拓南丸、臺東丸、九州丸、御嶽山丸、桂川丸、備後丸、鹿島山丸、熊野山丸、第七雲海丸、辰榮丸、浜江丸、美保丸、い號壽山丸、生田川丸の船歴を追加。この戦時日誌は結構誤記があって混乱する。すでに沈んでいる艦が登場したり、C08030276300、P.11の特設監視艇「昭榮丸」とは?一緒にでてくる「第二海王丸」も少なくとも特設監視艇ではないのだがどういうステータスだったのか?
第十二特別根據地隊戦時日誌の雁、第7号驅潜艇、第7号掃海艇、香椎の船歴はすでに組み込んでいたようで特に追記なし。
第二十一掃海隊(第三十八號掃海艇、第三十九號掃海艇、第四十一號掃海艇)戦時日誌・戦闘詳報より第38号掃海艇、第39号掃海艇、第41号掃海艇、呉竹、栗、第115号輸送艦、第19号驅潜艇、第21号驅潜艇、第41号驅潜艇、第55号驅潜艇、第61号驅潜艇、第83号驅潜特務艇、第96号驅潜特務艇、第151号驅潜特務艇、第163号驅潜特務艇、第176号驅潜特務艇、第177号驅潜特務艇、第191号驅潜特務艇、第192号驅潜特務艇、長島、護國丸、華山丸、朝輝丸、第二昭和丸、鮎川丸、高知丸、紀洋丸、旺洋丸、陽光丸、タラカン丸、尊條丸、大峰丸、御津丸、帝楓丸の船歴を追加。
タマ29船団に関する「戦時輸送船団史」の記述(P.269)はこの第二十一掃海隊戦時日誌が元ネタだと思います。
十月三日一七三〇、カミグイン島サンピオクイント港に入泊、ここで船団は待機し、帝楓丸と第三十九號掃海艇が特別行動に移り、一九一〇アパリに回航した。二三五七到着と同時に揚陸業務を行ない、四日一四〇〇出港、一九三五に戻ってきた。
しかし、戦時日誌を正確に読むと第39号掃海艇は4日1935にサンピオクイントには戻っていません。1935にはサンピオクイントではなくサンビセンテに避泊しています。また、第39号掃海艇が帝楓丸と行動を共にしていたのが確認できるのはアパリ到着までで、それ以降は、行動を共にしたともしていないとも書かれていません。
次いで二隻は五日〇八五〇再び出港し、二一〇七サンビセンテ(ルソン島北東端)に回航し、同様揚陸揚搭業務を実施し、六日一六四二帰港した。
5日0851に避泊地を出港した第39号掃海艇は連絡の為に船団がいるサンピオクイントに回航し5日2107再びサンビセンテに戻っています。そして6日1642にサンビセンテを発し船団に合同しています。
二隻が帰港すると、僚船は一斉に出港準備にとりかかり、同日一九〇〇抜錨、八日〇二五〇、北サンフェルナンドに入港した。
サンピオクイント-サンビセンテ間は直線距離でも50kmあり、20ktでぶっ飛ばせば2時間16分で行けないことはありませんが、帝楓丸(最高12kt)を連れていてはまず不可能。第39号掃海艇の5日の行動では往航が0851〜1312で4時間21分、復航が1636〜2107で4時間31分もかかっています。第38号掃海艇から第39号掃海艇に宛てた機密第061300番電では一〇番船を同行護衛しつつ七日0230バタポイントにて合同する如く行動せよ
、同じく第38号掃海艇からの機密第061330番電では第六萬榮丸は荷役終了後独行せしむ 驅潜特九五號をして帝楓丸を護衛せしめよ
と命令されています。サンビセンテ(San Vcente)、サンピオクイント(San Pio Quinto)、パタ岬(Pata Point)の位置関係は添付図の通りですが、サンビセンテからサンフェルナンドに向かうにはサンピオクイントを迂回することになり、パタ岬に直行した方がより効率的です。帝楓丸は6日2108、アパリ沖で敵潜の襲撃を受けました(武装商船警戒隊戦闘詳報第278号)がこのときの護衛艦は1隻であったことが記されています。この護衛艦は第95号驅潜特務艇のことでしょう。因みにこのときの帝楓丸の速力は7ktです。従って少なくとも帝楓丸が6日1900に船団とともにサンピオクイントを抜錨したことはあり得ません。なお「戦時輸送船団史」には北サンフェルナンドという地名が度々出てきますが、Wikiによると「サンフェルナンド(San Fernando)は、フィリピン北部ルソン島にあるラウニオン州の州都で、(中略)第二次世界大戦中は、サンフェルナンド (パンパンガ州)との区別のため、日本軍により北サンフェルナンドと呼ばれていた。」そうです。しかしパンパンガ州にあるサンフェルナンドは海に面しておらず港はありません。従って、サンフェルナンド港といえばラウニオン州にある方に決まっており、海軍の戦時日誌等で北サンフェルナンドと書かれていることはほとんどありません。本サイトでも基本的に北サンフェルナンドとはせず単にサンフェルナンドとするようにしています。
羅津方面特別根據地隊戦時日誌より追記はなし。
旅順方面特別根據地隊戦時日誌より公稱第484號の船歴を追加。というか、これ本当に旅順方面特別根據地隊の記録なんだろうか?少なくとも昭和20年の記録じゃないよね。第1〜第4曳船の公称番号がわかれば追記することも増えるのだが・・・
厦門方面特別根據地隊戦時日誌より栗、栂、蓮、友鶴、初雁、鷺、宇治、第21号掃海艇の船歴、というほどのものでもないが節号作戦の軍隊区分のみを追加。
揚子江方面特別根據地隊戦時日誌より熱海、二見、多々良、鳴海、隅田、勢多、堅田、保津、小鷹、比良、伏見、須磨、八曳(公称第841号)、中砲(公称第1213号?)の船歴を追加。
第十三根據地隊戦時日誌より追記はなし。
第十四根據地隊戦時日誌より追記はなし。
第十五根據地隊戦時日誌より初鷹、雁、第4号掃海艇、第5号掃海艇、第34号掃海艇、第11驅潜隊(第7号驅潜艇、第8号驅潜艇、第9号驅潜艇、第34号驅潜艇、第35号驅潜艇)、第20号驅潜艇、第23号驅潜艇、第63号驅潜艇、第35号驅潜艇、第1号敷設特務艇、第9号掃海特務艇、第2号驅潜特務艇、第41号驅潜特務艇、第45号驅潜特務艇、第55号驅潜特務艇、第113号驅潜特務艇、第114号驅潜特務艇、永福丸、第六長運丸、利丸、第二利丸、麗水丸、第一京丸、天塩丸、大朝丸、利水丸の船歴を追加。
「海なお深く」の続刊があり、これが再刊されたことを知る。箱とDVD欲しさにすでに持ってる上巻を2度買いするか下巻のみとするか迷った挙句、アマゾンではセットが売り切れだったこともあり、結局下巻のみ購入。
28日は全く盛り上がらないプレミアムフライデーを盛り上げるために半休とって自主プレミアムフライデーとする。
第二十一掃海隊(第七號掃海艇、第八號掃海艇)戦時日誌より第7号掃海艇、第8号掃海艇、明石、朝風丸、伊良湖、間宮、第二小倉丸の船歴を追加。
第二十一號掃海艇戦闘詳報より第21号掃海艇、第111号輸送艦、第139号輸送艦、第140号輸送艦の船歴を追加。
第十一號掃海艇戦時日誌より第11号掃海艇、ついでにでてくる若鷹、第102号特設輸送艦、第12号掃海艇、第2号驅潜艇、第3号驅潜艇、第23号驅潜艇、第102号掃海特務艇、第106号掃海特務艇、第114号驅潜特務艇、第115号驅潜特務艇、立石、聖川丸、君川丸、讃岐丸、大興丸、東照丸、南海、春川丸、漢江丸、鵲丸、生田川丸、白令丸。第二菱丸、江ノ島丸、興隆丸、喜多丸、北海丸、い號秋津丸、洋制丸、第十二雲海丸、第十二南進丸、第十六南進丸、硯山丸の船歴を追加。
千島方面特別根據地隊、千島方面根據地隊戦時日誌より秋津洲、第14号驅潜艇、第15号驅潜艇、第35号驅潜艇、
第36号驅潜艇、第43号驅潜艇、白鳳丸の船歴を追加。
馬公方面特別根據地隊戦闘詳報より追記はなし。
昭和丸、萬龍丸他のサムネイルを追加。リンク先にDigitalt Museumを追加。ここからノルウェーの博物館のコレクションが横断検索できます。Akers関連の建造番号が判明したので追記。第二昭和丸とか第一大東丸の写真もあるのでご訪問あれ。
前回「Chromeで見てる人は少しすっきりした感じを受けたのではないでしょうか。」と書きましたが「どこか変わった?」と思われた方もいらっしゃたのではないでしょうか?ローカルだと変わってるんですが、アップしたあと確認すると、全然変わってないじゃん。さてはと、キャッシュをクリアすると変更が反映されました。
第十二號掃海艇戦時日誌より第12号掃海艇、ついでにでてくる勝力、若鷹、雉、隼、第11号掃海艇、第101号掃海艇、第1号驅潜艇、第2号驅潜艇、第34号驅潜艇、第35号驅潜艇、第53号驅潜艇、第9号掃海特務艇、第107号掃海特務艇、第104号驅潜特務艇、第106号驅潜特務艇、第113号驅潜特務艇、第115号驅潜特務艇、第116号驅潜特務艇、第117号驅潜特務艇、潮洋、第101号特設輸送艦、第102号特設輸送艦、萬洋丸、第一昭南丸、第二昭南丸、第五拓南丸、大鷹丸、東石丸、第十八日東丸、鵲丸、西阿丸、江ノ島丸、喜多丸、日営丸、じゃんび丸、三笠丸、湖北丸の船歴を追加。
第五十二根據地隊戦時日誌より常盤、第五十二掃海隊(第24号掃海艇)、第15号驅潜艇、第41号驅潜艇、第43号驅潜艇の船歴を追加。
第五十一根據地隊戦時日誌より第五驅潜隊(第13号驅潜艇、第14号驅潜艇、第15号驅潜艇)、駒橋、陽光丸、鹿野丸、野島丸の船歴を追加。
インストールしたくなかったが訳あってChromeを入れざるを得なくなったので、ついでに見栄えを確認。少しスタイルシートをいじる。Chromeで見てる人は少しすっきりした感じを受けたのではないでしょうか。これが本来筆者が作成している環境に近いものです。
第十五號掃海艇戦時日誌より第15号掃海艇、ついでにでてくる友鶴、真鶴、第38号驅潜艇、第49号驅潜艇、第58号驅潜艇、第38号哨戒艇、燕、間宮、室戸、第六海洋、高榮丸、西貢丸、新興丸、厳島丸、香久丸、第二新東丸、第十六昭南丸、關丸、第二十七郵船丸、竹東丸、太安丸、第七利丸、第五十一播州丸、ちとせ丸、第十三長運丸、海威、映海丸、和山丸、興隆丸、重興丸の船歴を追加。
第三十三特別根據地隊戦時日誌より追記はなし。
第三十二特別根據地隊戦時日誌より第45号驅潜艇、塩屋の船歴を追加。
第三十一特別根據地隊戦時日誌より栗、鴻、第10号驅潜艇、第11号驅潜艇、第12号驅潜艇、さんるいす丸の船歴を追加。
第三十特別根據地隊戦時日誌、同所属各艇戦時日誌・戦闘詳報より蒼鷹、第10号驅潜艇、第12号驅潜艇、第34号驅潜艇、第22号掃海艇、第60号驅潜特務艇、第61号驅潜特務艇、第62号驅潜特務艇、伊良湖、淺香丸、第十一昭南丸、瑞鷹丸、得撫丸、祥鳳丸、第二文丸、興業丸、廣順丸、大天丸、天龍川丸、睦洋丸、おりんぴあ丸、大榮丸、ばいかる丸、公称第1329号曳船の船歴を追加。
3年前の2014年07月12日に「楡津とはいったいどの辺にあったのでしょうか?」と疑問を呈しましたが漸く判明しました。やはり羅津からそう離れていない場所、直線距離で10.5kmほどのところにありました。添付画像の左の地図は東北大学附属図書館/理学部地理学教室-外邦図デジタルアーカイブの外邦図番号 OC015716で、右の図はわかりやすいようにGoogle Mapの同じ場所をスクリーンショットしたものです。Google Mapの「AH6」が「楡津」で航空写真にすると艦艇が1隻写っていることからも間違いないと思います。
今年もはや後半。でもまだボーナスがでない。支給率下げたんだからせめてさっさと出せよ!
第十六號掃海艇戦時日誌より第16号掃海艇、ついでにでてくる第5号驅潜艇、第106号掃海特務艇、聖川丸、億洋丸、生田川丸、尻矢、洲埼、足摺、旭東丸、玄洋丸、巨港丸、江ノ島丸、國洋丸、日章丸、廣隆丸、北陸丸、衣笠丸、たるしま丸、昌平丸の船歴を追加。
第二十六特別根據地隊戦時日誌より厳島、津軽、八重山、蒼鷹、若鷹、雉、第4号掃海艇、第5号掃海艇、第8号掃海艇、第11号掃海艇、第22号掃海艇、第28号掃海艇、第12号驅潜艇、第26号驅潜艇、第31号驅潜艇、第34号驅潜艇、第35号驅潜艇、第36号驅潜艇、第37号驅潜艇、第41号驅潜艇、第45号驅潜艇、第46号驅潜艇、第53号驅潜艇、第60号驅潜艇、第104号哨戒艇、第105号哨戒艇、栂の船歴を追加。
第二十五特別根據地隊戦時日誌より若鷹、雉、第26号驅潜艇、第34号驅潜艇、第35号驅潜艇、第53号驅潜艇、第60号驅潜艇、第5号掃海艇、りおでじやねろ丸の船歴を追加。
第二十四特別根據地隊戦時日誌より日進、蒼鷹、厳島、友鶴、初雁、雉、鵲、第3号驅潜艇、第6号驅潜艇、第8号掃海艇、第11号掃海艇、第12号掃海艇、りおでじやねろ丸、西安丸、葛城丸、東園丸、萬洋丸、屏東丸、リ山丸、北陸丸、高砂丸、國山丸、硯山丸の船歴を追加。
第二十三特別根據地隊戦時日誌より蒼鷹、千鳥、真鶴、第6号驅潜艇、第19号驅潜艇、第20号驅潜艇、第21号驅潜隊、第8号掃海艇、第11号掃海艇、生田川丸の船歴を追加。
第二十一特別根據地隊戦時日誌より若鷹、白鷹、厳島、雁、第2號哨戒艇、第102号哨戒艇、第104号哨戒艇、第106号哨戒艇、燕、第1号驅潜艇、第2号驅潜艇、第3号驅潜艇、第13号驅潜艇、第14号驅潜艇、第15号驅潜艇、第26号驅潜艇、第8号掃海艇、第11号掃海艇、第12号掃海艇、第34号掃海艇、筑紫、早埼、平洋、北陸丸、國山丸、硯山丸、第十七昭南丸の船歴を追加。
これらを通して言えることはワシレとカウがごちゃごちゃになっていること。同日同時間に片やワシレ発、片やカウ発でいったいどっちが本当かさっぱりわからない。カウと言っても実際にはマリフッドだったりホーリだったり。要するにカウというのがカウそのものなのかカウ湾なのか曖昧ということ。で、これらはハルマヘラ島発着くらいなアバウトさでご理解ください。日にちも各戦時日誌で1日程度のずれはかなりあります。第二十六特別根據地隊戦時日誌で第28号掃海艇の動静がある程度わかりますが、「資料亡失ノ為、本艇乗組生存者海軍一等兵曹...ノ記憶ニ依リ調整」した第28号掃海艇の戦時日誌とはかなり異なり、人間の記憶というものがいかにあてにならないかが良く分かります。双方を比較するとあーこの記憶がこうなっているのかと色々面白いのでお暇な方は是非、各原文をご覧ください。
みゆき丸、白山丸(石川県)の写真を発見。リンクを貼る。
第十特別根據地隊戦時日誌より日新丸、第二圖南丸、國津丸、香椎、刈萱、嚴島、津軽、初鷹、八重山、雁、朝日、第7号驅潜艇、第8号驅潜艇、第9号驅潜艇、第14号驅潜艇、第19号驅潜艇、第20号驅潜艇、第21号驅潜艇、第35号驅潜艇、第63号驅潜艇、第4号掃海艇、第5号掃海艇、第7号掃海艇、第34号掃海艇、第四天海、第一掃海隊等の船歴を追加。
第八特別根據地隊戦時日誌より第16号驅潜艇、第17号驅潜艇、第18号驅潜艇、第22号驅潜艇、第23号驅潜艇、第24号驅潜艇、第31号驅潜艇、第37号驅潜艇、第38号驅潜艇、第39号驅潜艇、第40号驅潜艇、
澎湖、測天、第34号哨戒艇の船歴を追加。
一般徴傭船(雑用船)500〜1000tの頁を作成開始。とりあえず諸元のみ。もっと数が多いと思っていたが意外と少ない。
2日連続で東京みなとまつりへ。2日目の戦果は、いかづち(DD-107)、かぺら(SS-59)。2日連続でいかづち、海竜に乗船。みやこどりは乗船1時間待ちということでパス。これが狙いだったんだけど。
第九根據地隊、第九特別根據地隊戦時日誌より初鷹、香椎、雁、第7号驅潜艇、第8号驅潜艇、第9号驅潜艇、第20号驅潜艇、第21号驅潜艇、第34号驅潜艇、第4号敷設特務艇、第413号魚雷艇、大立、第1号掃海艇、第2号掃海艇、第3号掃海艇、第4号掃海艇、第5号掃海艇、第6号掃海艇、第7号掃海艇等の船歴を追加。
交通船兼曳船(艦載水雷艇型)/(水雷艇型)の頁を更新。曳船兼交通船(150t)を独立。
東京みなとまつりに行く。照洋丸、拓洋、いかづち、海鷹丸、海竜に乗船見学。
第六根據地隊戦時日誌より常盤、相洋丸の船歴を追加。
第七根據地隊戦時日誌より第22号驅潜艇、第23号驅潜艇、第24号驅潜艇、第28号驅潜艇、第29号驅潜艇、第30号驅潜艇の船歴を追加。
第八特別根據地隊戦時日誌より津軽の船歴を追加。
曳船兼交通船(ベデット型) 、交通船兼観測船の頁を更新。
第四根據地隊戦時日誌より鹿島、第10号驅潜艇、第11号驅潜艇、第12号驅潜艇、第20号驅潜艇、第21号驅潜艇、第28号驅潜艇、第29号驅潜艇、第30号驅潜艇、第31号驅潜艇、第32号驅潜艇、第33号驅潜艇、第8号掃海艇、第二菱丸、五洲丸、康寧丸、羽黒丸の船歴を追加。一部第二海上護衛隊戦時日誌より日付を補正。
第五根據地隊戦時日誌より第15号掃海艇、第二文丸戦時日誌より鵯、第28号驅潜艇、第31号驅潜艇の船歴を追加。
田村俊夫氏から晉江、曉江、威明、晨明の正しい排水量をご教示いただいたので訂正。威明、晨明の映像についてご教示いただいたので掲載。其の他もろもろ。
交通船(内火式河用特型)、内火艇(魚雷艇型)、内火艇(ランチ型)の頁を更新。
Windows 10になってからGrooveミュージックを我慢して使っていたが、もはや限界。Windows Media PlayerにDefaultを戻す。さようならGrooveミュージック。あなたのように反応の遅いPlayerは全く使いものになりません。
残る波止浜船渠、川南工業浦崎、三光造船、佐野安船渠、東海造船、占部造船、東京石川島造船所の報告から起工日等を追記。
第一根據地隊戦時日誌より秋津洲、白鷹、津軽、初鷹、蒼鷹、鴻、鵯、第7号掃海艇、第8号掃海艇、第9号掃海艇、第10号掃海艇、第11号掃海艇、第12号掃海艇、第15号掃海艇、第22号掃海艇、第1号驅潜艇、第2号驅潜艇、第3号驅潜艇、第10号驅潜艇、第11号驅潜艇、第12号驅潜艇、第13号驅潜艇、第14号驅潜艇、第15号驅潜艇、第19号驅潜艇、第20号驅潜艇、第21号驅潜艇、第24号驅潜艇、第26号驅潜艇、第28号驅潜艇、第29号驅潜艇、第30号驅潜艇、澎湖、測天、第2号哨戒艇、第34号哨戒艇、荒埼、筑紫、國川丸、五洲丸、東光丸、第十五榮丸、第十九日東丸、第十二京丸、第十三京丸、第五拓南丸、第十七昭南丸、第三高速丸、第十八眞盛丸、苅藻丸、拓榮丸の船歴を追加。
交通船(艦載水雷艇型)/(水雷艇型)/(ベデット型)、曳船兼交通船(驅潜艇型)の頁を更新。
金指造船所、笠戸船渠、三菱重工業江南、川南工業香焼島、九州造船(杤木造船)、日立造船向島、浪速船渠、大原造船、大阪造船、日立造船櫻島の報告から起工日等を追記。
戦後の報告なので少し疑問のあるデータも含まれており、造船雑纂や日本汽船名簿など当時の(準)公式記録と異なるものは後者を優先せざるを得ない。特に竣工日に違いが多い。当サイトでは主に日本汽船名簿に掲載されてある証書の有効期間から竣工日を特定しているのだが、例えば引渡日とか「竣工」の定義そのものが異なるのかもしれない。
内火艇(魚雷追躡艇型)の頁を更新。
昭和20年までの雑役船(機動船艇)の船歴の整理完了。4箇月かかった。橈艇とか雑種船を始めたら一体どれくらいかかるのだろう。公称第1700号〜第1736号は未命名と思われるので1701隻中確認できたのは1672隻98.3%。これで土台ができたので戦後の文書の調査に入る。残りの29隻のうち、さて何隻判明するか。
2013年06月15日に公称第1332号飛行機救難船の「曙丸」改名について疑問を呈したが官報にて改名の事実を確認したので撤回。ただし「海上保安庁全船艇史」にあるような昭和27年7月1日ではなく昭和27年3月4日付海上保安庁告示第3号によるもので施行は昭和27年1月1日である。
国立国会図書館デジタルコレクションの日本占領関係で米国戦略爆撃団の調査文書に各造船所からの戦時建造船の報告がある。起工日などがわかるので適宜追加。まずは、日立造船の築港(一部)、同因島、藤永田造船所、函館船渠、名古屋造船、林兼造船、蓬莱造船から。
そういえばHP Support Assistanceが勝手にZドライブを作成してしまう?という気持ち悪い現象がまた発生している。
昭和17年から昭和19年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。未掲載船は1隻増えて1隻減って1665隻中29隻。
2016年03月05日に調査結果を書いた飛行機救難船。公称第1165号とは昭和17年度計画番号17-1165のことで、公称番号は付されていないのではなかろうかというのが最新の推定。
法事で帰省するので来週の更新は土曜日の夜か日曜日になる予定です。
昭和15年から昭和16年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。未掲載船は1隻減って1418隻中29隻。
昭和15年の海軍公報(部内限り)は9〜12月分が欠落、さらに十四年度新造雑役船が掲載されている1月23日の號外が欠落している。しかし幸いにもこれらは「昭和15年度海軍制度沿革史資料巻八」にスクラップされているので防衛研究所史料閲覧室で閲覧できるんです。
中国威海衛海軍要港部輔導部戦時日誌から首里丸、日本海丸、雉の船歴を追加。
内火艇(砲艇型)の頁を更新。 通常の作り方をした場合4〜5頁になってしまうが「写真求む」だらけだし、各艇の船歴へのアクセスも効率的でないしな、と思い昔北京で撮影した写真を使用して1頁にまとめてみた。写真は桜と錨さんのところに掲載してもらってるものとほとんど同じですが、せっかくだからと別の写真を使ってます。別アングルの写真もありますがやはり真横からのものが一番良いかなと。
4月になり3人が転出。20日附でもう1人転出。他所の部署から仕事付きで4人が編入。この仕事5人でやってたそう。決定してる補充は3人。そのうち1人は産休明けで5月まで来ない。人数合わんじゃないか!
昭和13年から昭和14年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。未掲載船は5隻増えて1199隻中30隻。昭和12〜13年の海軍公報(部内限り)に欠号はない。しかし公称第1004号〜1007号の4隻は掲載されていない。よって欠番と思われるかもしれないが公称第1005号は元上海税関の監視艇關維で写真も残されている。正岡氏のメモではpッ(のちの特設測量艦白沙)搭載中に捕獲されたもので同時に捕獲された關bェ公称第1006号とのことである。公称第1004号と第1007号の存在は確認できないが、この2隻を含めた4隻は欠番ではなく「機密扱い」されていたと推定される。昭和14年は6〜8月分が欠落しておりこの部分は正岡氏のメモと目録から推定しているので念のため。それにしても正岡氏のメモの元ネタはどこにあるのであろうか?
先週の土日で熱海温泉に行く。この季節渋滞がひどすぎる。11時30分着の予定が15時。まともな昼食もとれずその日何もできず。
靖国偕行文庫では戦時日本船名録の追録・正誤表は半分しかコピーできなかったので残りの半分を国会図書館から入手。指定しそこないA4で複写されてしまったので不揃いになってしまった。
昭和11年から昭和12年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。未掲載船は2隻減って981隻中25隻。300番台までの不明船14隻についてはほぼ絶望的なので番号非表示とした。また、これ以降は公文備考が残されていないので廃船の状況は不明。終戦時に存在が確認できず、戦没の記録もないものは、戦前に廃船処分と思われるが確認は不能。
昭和館へ行く。「海上交通保護用船名簿」にはJACAR掲載のもののような欄外の書き込みはないことを確認。
内火艇(驅潜艇型)と内火艇(消火艇)の頁を更新。
昭和10年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。未掲載船は変わらず937隻中27隻。
桂丸、稲荷丸、昌隆丸、日鐵丸の写真をアップ、日國丸の写真を船首が切れてないものに更新。
昭和館へ行く。休室。確かにトップページにお知らせがある。図書室のご利用案内にもお知らせがある。ご利用総合案内しか見なかった自分が悪いということか。
靖国偕行文庫へ行く。戦時日本船名録の追録と正誤表を閲覧。国交省海事局の調査結果が掲載されてあるが100t未満の小型船がほとんどで期待したものではなかった。陸軍船の船舶番号にも新たな発見はなかったようである。特設艦船の図面集も見たが計画段階のものが多く、また縮小しすぎてよくわからず、あまり役に立ちそうにない。
昭和19年01月〜02月分佐伯防備隊戦時日誌、呉防備戦隊の戦時日誌から第31号哨戒艇、怒和島、由利島、鳩、鷺の船歴を追加。
昭和08年から昭和09年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。調査の過程で見つけた改造工事等の訓令、認許等を適宜の頁に追記。未掲載船は5隻減って887隻中27隻。
J-Air Craftで天翔氏のサイトが引用されており久々に訪問。「海洋少年」という雑誌に「明島丸」の写真が掲載されていることを知る。この雑誌はタイトルからして子供向けのものと勝手に思い込んでスルーしていたのだが、なかなかどうして。早速、近所の図書館に行って複写してきた。端末は1台しかないので、誰かとバッティングするようだと30分で交代せよとのこと。しかも複写は1日50枚という制限もある。焦りながらなんとか1時間で必要最低限のものの複写申請をこなす。図書館の職員の方は別途検索掛けて別の端末で印刷しなければならず、かなり大変そう。しかもA4でしか出力できないということで、結局いずれ国会図書館に行かねばならないという結論ではあるが、国会図書館と違って1枚10円だし、とりあえずはOK。
そのうち稲荷丸、昌隆丸、日鐵丸の写真をアップ、日國丸の写真を船首が切れてないものに更新する予定。
明治44年から大正03年までと昭和06年から昭和07年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。調査の過程で見つけた改造工事等の訓令、認許等を適宜の頁に追記。
これで明治23年から昭和07年までつながったことになる。未掲載船は826隻中32隻。
書き忘れてましたけど明治大正期の固有船名をもつ船については雑役船の部>雑役船>その2へ続くに掲載してあります。
1行だけのひとりごとだとどのくらいファイルを更新しているかわからないでしょうが、Ver.17.08では325個のファイルを更新し、今回も319個のファイルを更新する予定。こんなにファイルを増やして大丈夫かなと。確かファイル数に上限があったはず、と検索してみたが、全然ひっかからない。制限撤廃されたのかなぁ。なら、容量あるまで気にしなくていいんだけど。橈艇と雑種船だけでもあと12,000隻ほどあるしね。
そういえばHP Support Assistanceが勝手にZドライブを作成してしまう?という気持ち悪い現象がいつのまにかなくなった。HPはこういうこと公表せずこっそり直すんですね。何かやな感じ。娘のノーパソ買ったとき欠品とか言われ1箇月放置され、酒の勢いでクレームしたら昨日欠品が解消されましたとすぐに送ってくる始末。製品に不満はないけど会社の姿勢というか、すごくやな感じ。次買うときはどうしようかなと考えてしまう。
明治40年から明治43年までと昭和05年の雑役船(機動船艇)の船歴を整理。
明治37年から明治39年までと昭和03年から昭和04年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。
明治34年から明治36年までと大正15年から昭和02年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。調査の過程で見つけた改造工事等の訓令、認許等を適宜の頁に追記。
飛行機救難船の魁を公称第872号及び公称第873号としていた。これは「海軍第十一巻 小艦艇 特務艦艇 雑役船 特設艦船」の記述からそうしていたのだが、大正14年度雑役船新造計画の緩急順序15:三百噸曳船兼交通船の要求(JACAR:C08051365900 P.15)に「後部に起倒式起重機(力量約二噸)を装備し後部「ケプスタン」の力量を成るへく増大すること」の記述がある。本船は公称第617号曳船兼交通船として建造されるわけで、同型として公称第623号がある。両船が要望通りに建造されたならば、これらが飛行機救難船の魁となるのだが、「日本海軍特務艦船史」の写真が公称第623号ならば起重機は装備されていない。よくわからないので、とりあえず、先の記述は本サイトから削除した。
明治32年から明治33年までと大正13年から大正14年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。調査の過程で見つけた改造工事等の訓令、認許等を適宜の頁に追記。
明治23年から明治31年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。調査の過程で見つけた改造工事等の訓令、認許等を適宜の頁に追記。
大正04年から大正12年までの雑役船(機動船艇)の船歴を整理。調査の過程で見つけた改造工事等の訓令、認許等を適宜の頁に追記。
時間切れで端折った見島の航泊日誌を全部組込み。ついでにでてくる迅鯨、安宅、宇治、白鷹、八重山、常盤、矢風、蓮、柿、楡、栗、栂、千鳥、真鶴、友鶴、燕、鴎、夏島、猿島、第1〜2号驅潜艇、第1〜6号掃海艇、第15号掃海艇、似島、測天、大和、青島、野島、室戸、能登呂、鶴見、早鞆、間宮、敷島、春日、朝日、光済、猿橋の入出港の記録を追記。宇治(初代)の航泊日誌にでてくる迅鯨、常盤、鴎、燕、室戸、能登呂、佐多、間宮の入出港の記録も追記。
雑役船(機動船艇)の船歴を整理中。ついでにでてくる諸々を追記。一等水雷艇の頁なども自然とできてしまう。ただしまだ未公開。
新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
雑役船(機動船艇)の船歴を整理中。固有船名を持つものも整理中。
潜水艦母艇の頁をざっと作成。雑役船整理の関係と、特務艇の中でこれだけリンクを貼ってないのも何だしなぁとお正月休みを利用して作成してみた次第。