特設艦船

特設艦船の制定

筆者の知る限り、特設艦船という用語が最初に出てくるのは大正5517日制定の「艦船令」第四十九条で、これに「特設艦船ニ關シテハ別ニ之ヲ定ム」と書かれております。これを受けて「特設艦船部隊令」が大正51223日に制定されました。これ以降の特設艦船の種別の変遷を一覧表にまとめたものが、表1です。

 

「特設艦船部隊令」制定前には、「戰時特設各船舶部隊條例竝ニ定員表」が明治30426日に制定されておりました(内令第11号)。このときにはまだ、特設何某という種別の船はありません。初めて特設何某という種別の船が出現するのは、明治39830日に前記の定員表を改正したとき(内令第262)で、特設巡洋艦と特設砲艦の定員が定められました。このとき、假装巡洋艦の定員に関する規定は廃止されました。ついで、明治391227日の内令第380号で、同定員表のうち水雷母艦に関する定員が特設水雷母艦に関する規定に変更となりました。また、大正541日には、特設掃海艇の定員に関する規定が新たに設けられ、前述の「特設艦船部隊令」の制定を迎えることになります。

最初の特設艦船

最初に特設何某と定められた船は大正3814日付で特設水雷母艦となった「熊野丸」です。特設巡洋艦は昭和5年になってから、特設砲艦は大正3820日付の「小樽丸」、「宮島丸」、「撫順丸」の3隻から、特設掃海艇は大正10年の「寶永丸」、「春日丸」から。運送船については大正717日付で横須賀鎮守府所管と定められた「上川丸」までが運送船、大正7116日付の「三池丸」から特設運送船として内令がでています。其の他の艦種が出現するのは昭和12年の支那事変からです。

特設艦船の隻数

昭和11年以前に特設艦船となった船舶は特設巡洋艦1隻、特設水雷母艦1隻、特設砲艦7隻、特設掃海艇2隻、特設運送船37隻の計48隻(実数は44隻)です。「笠戸丸」は一部公文書に特設病院船という記述もありますが内令では病院船とされています。なお、前述の特設水雷母艦「熊野丸」、特設砲艦「小樽丸」、「宮島丸」、「撫順丸」は特設艦船部隊令制定前に除籍されていますので、これらは特設の文字が冠されていても特設船舶として扱い、「笠戸丸」などは特設の文字が冠されていなくてもを特設艦船として扱うべきかもしれません。

 

昭和12年以降特設艦船となった船舶は1340隻で、そのうち種別を変更された船舶が149[1]、一旦除籍後、再び同じ種別に入籍された船舶が41隻あります。従って、延べ隻数は1530隻となります。

 

1530隻のうち93[2]が大東亜戦争前に除籍されましたので大東亜戦争に参加した船舶は延べ1437隻となります。また、93隻のうち28隻は大東亜戦争開戦後に再び特設艦船となることはありませんでしたので、大東亜戦争に参加した船舶の実数は1312隻となります。これらを一覧表にまとめたものが、表3です。

 

この数字は特設艦船とされ、内令で所管が定められたものです。

従って、艤装工事が完了しなかったもの、例えば特設敷設艦「光隆丸」も含む一方、竣工と同時に航空母艦に変更された「飛鷹」や建造中に二等輸送艦に変更された特設輸送艦は含んでいません。特設艦船として予定されていても、実際に入籍されなかったもの、例えば「新田丸(特設航空母艦に予定)、「浪切丸」(特設防潜網艇に予定)、「慶昭丸」(特設工作艦に予定)も含んでおりません。 

 



[1] うち8隻(神川丸、國川丸、國洋丸、五洲丸、山東丸、東榮丸、寶洋丸、りおでじゃねろ丸)は他の種別を経由して再び同じ種別になった。

[2] 特設監視艇「拓新丸」は昭和16817日喪失ですが除籍の記録が見当たらないため93隻の中に含めておりません。また特設監視艇や特設運送船の中には入籍時にすでに戦没していたものがありますがこれも除外しておりません。この数字はあくまで書類上の入籍、除籍日ベースで計算してあります。