滿洲國海上警察隊の設立まで滿洲國海上警察隊は滿洲國建国とともに発足した民政部隷属の三つの特殊警察隊のひとつ海邊警察隊を起源とします。大同元(1932)年6月15日に特殊警察隊官制が制定され、同年4月10日に遡及して施行されました。海邊警察隊は「管内の海邊を警戒し不正入国並に密輸の監視及び取締」(特殊警察隊官制第五條)をすることを任務とし、同年10月15日名称を「海邊警察隊」とし營口に置かれることが定められました(民生部令第四號)。 海邊警察隊・營口海邊警察隊の警備船先づ海邊警察隊では「九重丸」を警備船として使用しました。本船は大正9年4月5日仁川鉄工所で進水した総噸数45.17の警備船です。朝鮮総督府の所属でしたが老朽化により使用されなくなっていたものを滿洲日本帝國海軍特設機関の斡旋により海邊警察隊が無償で借入したものです。大同元年7月21日に最小限の修理を完了の上、全羅北道知事と海邊警察隊で借受証が交わされました。同年11月25日付で朝鮮総督府から(日本)海軍省へ管理換えをし12月7日付で「九重」と命名、雑役船(曳船兼交通船)に編入した上で引続き海邊警察隊に無償貸与されました。一時滿洲國へ無償下賜する話もありましたが、当時国有財産法上、他国に対して船舶を贈与する規定がなかったため無償貸与の状況が続き、そうこうするうち康徳2年11月16日流氷の衝撃により船底に損傷を受け沈没してしまいました。 奉天省には海邊警察隊と同じような任務をもつ部署がありました。民國18(1929)年12月の時点で礟船6隻(「開海」「安海」「綏遼」「海」「快馬」「飛龍」)、巡船12隻(「第一號」〜「第十二號」)を有した漁業商船保護局保護科です。この漁業商船保護局所属の礟船「海」を大同元(1932)年10月の時点で海邊警察隊警備船と記す文書が残っています。重複する任務を統合する意味合いもあり、大同2年5月8日には奉天省漁業商船保護局保護科の船舶17隻をはじめとする諸施設を海邊警察隊に移管する訓令が発せられました。このときの17隻の内訳は礟船5隻、巡船12隻となっております。康徳3(1936)年1月の政府公報に滿洲國籍船が掲載されたときには、すでにこれらの船舶のうち「海」「快馬」以外の船名を見出すことはできません。また大同2年12月末の旅順要港部の警備月報でも「開海」他3隻と「第五號」及び「第十一號」巡船の名前は見られません。これらは実際には移管されなかったか、あるいは移管されたとしても海邊警察隊での在籍期間はごくわずかだったと思われます。 大同2年頃、鹽務署の「駿通」と南滿洲鉄道株式會社の曳船「宗谷丸」も營口海邊警察隊に加わりました。「駿通」は終戦まで残存していたようですが康徳3年1月の政府公報にはすでにその船名を見出すことができません(註:滿洲國官吏録によると康徳5年4月1日現在の船長は瀧澤信次警尉)。 康徳元年に遼河水上警察局を合併すると、その所属船艇も營口海邊警察隊に加わりました。船名は「第一遼河」〜「第七遼河」でした。ただし「第二遼河」は大同2年に火災事故をおこして沈没してしまいましたので營口海邊警察隊には加わっておりません。 既存船で船隊の充実をはかる一方で200トン型2隻(「海鳳」「海龍」)、45トン型4隻(「海光」「海瑞」「海榮」「海華」)及び10トン型5隻(「第一海邊」〜「第五海邊」)の警備船新造と700トン警備船母船(「海王」)の購入予算が成立し、これらが後の海上警察隊の主力を構成することになります。10トン型は日本海軍の15米内火艇に相当する船でした。 田村俊夫氏の「満州国江防艦隊始末記」によると「第六海邊」「一號戎克」「二號戎克」、同氏の「往年の「満州国海上警察隊」について」によると「第七海邊」「第八海邊」という船の名も見いだせます。「第八海邊」は没収した木造の遊漁船だそうです。 海上警察隊警備船海上警察隊警備船について海上警察隊の警備船は營口海邊警察隊から継承された船艇で構成され、外洋航行可能な船艇は大東亞戦争末期には大日本帝國海軍の指揮下で船団護衛、対潜掃蕩に従事しました。 海上警察隊警備船の諸元ここをクリックして下さい。 海上警察隊警備船の船歴下の各船の画像をクリックして下さい。
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