病院船のことを論じるときは、国際条約について知る必要があります。そのものずばりの名前の条約がありますが、これは一種の租税条約なので、本稿では取り扱いません。本稿で書くののは、病院船についての規定等を定めた方の条約で、大東亜戦争時に有効だったのは「「ジェネヴァ」條約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル條約」(以下「ハーグ条約」と書きます)です。1907年10月18日にハーグで調印し、1911年11月6日批准、同年12月13日に批准書を寄託し、国内では翌年(明治45年)1月13日に公布されました。これは、国内法令である海戦法規の第十六條で「病院船ニ關シテハ明治四十五年條約第十號「ジェネヴァ」條約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル條約ノ規定ニ依ルヘシ」と条約そのものを呼び込む形で法制化されております。
一方、現在有効なのは「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第二条約)」(以下「ジュネーブ条約」と書きます)です。こちらの方はGoogleなどで検索すれば紹介してあるページを見つけられると思います。
ここで、まず軍用病院船についての規定を列挙してみたいと思います。
(ハーグ条約)
第一條
軍用病院船即チ傷者、病者及難船者ヲ救護スル唯一ノ目的ヲ以テ國家ニ於テ製造シ又ハ設備スル船舶ニシテ開戰ノ際又ハ戰争中其ノ使用ニ先チ船名ヲ交戰國ニ通告シタルモノハ戰争ノ継續中之ヲ尊重スヘク且捕獲スルコトヲ得サルモノトス
右船舶ハ中立港内ノ滞留ニ關シ亦軍艦ト同一視セラルルコトナシ
(ジュネーブ条約)
第二十二条〔軍用病院船〕 軍用病院船、すなわち、傷者、病者及び難船者に援助を与え、それらの者を治療し、並びにそれらの者を輸送することを唯一の目的として国が特別に建造し、又は設備した船舶は、いかなる場合にも、攻撃し、又は捕獲してはならないものとし、また、それらの船舶が使用される十日前にその船名及び細目が紛争当事国に通告されることを条件として、常に尊重し、且つ、保護しなければならない。
A 前記の通告において掲げる細目は、登録総トン数、船首から船尾までの長さ並びにマスト及び煙突の数を含むものでなければならない。
第二次世界大戦の教訓をいかして、ジュネーブ条約には、かなり、詳細な規定が追加されていることがおわかりと思います。
前述のハーグ条約第一條やジュネーブ条約の第二十二条にあるとおり、病院船を捕獲してはなりません。捕獲してはならない船ですから、拿捕の有効性を問う捕獲審検の対象にもなりません。
オランダの特設病院船Op ten Noort号は違法に拿捕されたのでしょうか。次のハーグ条約第四條やジュネーブ条約の第三十一条をご覧ください。
(ハーグ条約)
第四條
第一條、第二條及第三條ニ掲ケタル船舶ハ國籍ノ如何ヲ問ハス交戰國ノ傷者、病者及難船者ヲ救護扶助スヘシ
各國政府ハ右船舶ヲ何等軍事上ノ目的ニ使用セサルコトヲ約定ス
右船舶ハ決シテ戰闘者ノ運動ヲ妨碍スヘカラス右船舶ハ戰闘中ト戰闘後トヲ問ハス自己ノ危険ヲ以テ活動スルモノトス
交戰者ハ右船舶ニ對シ監督及臨檢捜索ヲ爲スノ權利ヲ有シ其ノ介助ヲ拒絶シ其ノ離隔ヲ命シ其ノ航行スヘキ方向ヲ指定シ且其ノ船内ニ監督員ヲ乘込マシムルコトヲ得若事情重大ナルカ爲必要ナルトキハ之ヲ抑留スルコトヲ得ヘシ
交戰者ハ病院船ニ下シタル命令ヲ成ルヘク該船ノ航海日誌ニ記入スヘシ(ジュネーブ条約)
第三十一条〔監督、臨検捜索〕 紛争当事国は、第二十二条、第二十四条、第二十五条及び第二十七条に掲げる船舶及び小舟艇を監督し、及び臨検捜索する権利を有する。紛争当事国は、それらの船舶及び小舟艇からの援助を拒否し、それらに退去することを命じ、その航行すべき方向を指定し、その無線電信その他の通信手段の使用を監督し、並びに、重大な事情により必要がある場合には、停船を命じた時から七日をこえない期間それらを抑留することができる。
A 紛争当事国は、船内に一人の監督官を臨時に乗り込ませることができる。その監督官は、前項の規定に従って与えられる命令が遂行されることを唯一の任務とする。
B 紛争当事国は、できる限り、病院船の船長に与えた命令を当該船長が理解する言語で病院船の航海日誌に記入しなければならない。
C 紛争当事国は、この条約の規定の厳格な遵守を証明させるため、一方的に又は特別の合意により中立国のオブザーヴァーを病院船に乗り込ませることができる。
日本政府はハーグ条約第四條によりOp ten Noort号を抑留したという立場をとっております。大東亜戦争中有効だったハーグ条約には抑留期間についての規定がなかったことにお気づきでしょう。Op ten Noort号がマカッサルでしばらく繋船状態にあったことは周知の通りです。そして「期間延引スルニ至リタルヲ以テ保安上修理ノ為廻航ヲ要すスルに至」ったとする外交文書の記述には正当性があります。船というものはただ繋船しているだけでも多額の港の使用料がかかりますし、船底に貝などの海中生物が付着しメンテナンスも大変になります。経済的に考えた場合、適度に稼動させた方が良いのは言うまでもありません。抑留船を利用してはいけないという条約の規定はありませんのでOp ten Noort号を「天應丸」と改名して特設病院船として使用したことは国際条約に違反しているとは言えません。特設病院船として使用することにより連合国の攻撃を避けることができれば、戦後に無傷で解放することができるのでむしろ一石二鳥の良い方法です。戦後のオランダとの賠償交渉でも国際条約違反云々ということは問題として一切取り上げておらず新聞報道の通り「オランダからの追及をおそれて」自沈させたのならば明らかにその判断は誤りです。いずれにしても本事件に関して日本政府は国際条約に何ら違反しておらず、そのことをもって帝國海軍が非難されるようなこともありません。そもそもOp ten Noort号は抑留船であって「拿捕した」あるいは「捕獲した」と書くこと自体が誤りです。
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【平成17年1月31日追記】
最近、アジア歴史資料センターで本件に関する外交資料が公開されているのを知り、これにより次のことが分かりました。